川徳の怪談
kawatoku no kwaidan
※怖い話が苦手な方はご遠慮ください。
この街とともに年月を重ねてきた川徳。長い歴史を育む中で、そっと伝えられてきた不思議な話があります。
夏のひととき、川徳にまつわる怪談はいかがでしょうか?
01
私が以前働いていたその部署は、売場というよりは事務所のような場所でした。
仕事が立て込んでいた頃は、どうしても帰りが遅くなる日が続き、部屋を出ると、すでにフロアの電気はすべて落ちて真っ暗になります。心細さを感じながらも、「窓から見える夜景がきれいだな」とか何とか気をまぎらわせていました。
ほとんど何も見えない通路を抜け、明かりのついたエレベーターにやっとたどり着くと、ほっとしたものです。
その日も、やはり遅くなってしまいました。
「そろそろ帰ろうかな…でも、この作業だけ終わらせてから」
そんなふうに考えながら手を動かしていた時のことです。
コン、コン。
部屋の奥にあるドアを叩く音がしました。
ガラス越しには、“人影”が見えています。
「警備の方かな」と思い、 「はーい」と返事をしてドアを開けたのですが――
そこには、誰の姿もありませんでした。
通路は真っ暗で、静まり返っています。
さっきまで確かに見えていたはずの影だけが、頭の中に残って離れません。
「今、ノックの音…聞こえましたよね」
そう隣の席の同僚に声をかけると、 「聞こえた、聞こえた」と、同じように頷くのです。
二人とも確かに聞いているのに、 そこには誰もいない。
あの時、背中をすっと冷たいものが撫でていったような感覚だけは、 今でも忘れられずにいます。
02
短い休憩時間の楽しみは、同期とのおしゃべりでした。
あそこのランチがおいしかったとか、最近はまっているものとか、たわいのない話をする時間は、慌ただしい仕事の合間に、心が落ち着く大切なひとときでした。
その日もひとしきり喋った後、ふと思い出し、先日の事務所での体験を同期に話すと、柔和な彼女の顔がはっと強張りました。
「-実は、私も同じような体験をしたことがあるの。」
一瞬目線をそらしたものの、意を決したように、彼女はゆっくりと口を開きました。
彼女がいたそのフロアは、いつも明るくて、子どもたちの笑い声が響いていました。
にぎやかで、どこかあたたかな空気が満ちている──そんな売場です。
けれど、ふと静けさが訪れると、不思議なことが起こることもあったそうです。
棚に並んだおもちゃのほうから、
小さな音が聞こえてくるのです。
「……ぱーん」
まるで、シンバルを軽く鳴らしたような、乾いた音。
彼女は、スイッチが入ってしまっているのかしらと思って、おもちゃをそっと手に取ったそうです。
けれど、持ち上げた瞬間、胸の奥がすっと冷えるような感覚に気づきました。
そのおもちゃ、
電池が入っていなかったんです。
なのに、またどこかで音がしました。
「ぱ……ん……」
まるで、彼女に
「ねぇ、いっしょにあそぼうよ」
とささやいているみたいに──。
03
あの出来事からしばらくして、私は別棟の部署へ異動することになりました。
その日はめずらしく残業になり、気づけば私ひとりだけが残っていました。
いつもなら何とも思わないその光景が、その日に限って妙に心細く感じられました。
たぶん、先に帰った同僚が話してくれた、「アネックスでの不思議な体験」のせいだったのでしょう。
その時です。
「……ぱーん」
どこかで、小さな音がした気がしました。ふと、同期が聞いたという音を思い出します。そして、私自身が経験した、あのノックのことも。
その瞬間、急に頭の中で何かがつながりました。
私がノックを聞いた部屋と、同期が音を聞いた売場。あの場所は、お客様の使わない階段を挟んで上下に並んでいた。
もしかして、あれは。
階段を使って、縦に移動していたのではないか。
急に怖くなりました。
もう帰ろう。仕事を切り上げて席を立とうとした、その時です。
急に室内の空気が冷たくなった気がしました。足が、思うように動きません。
早く帰らなければ。
そう思うほど、身体だけが取り残されたように重くなっていきます。
そして。
「……ぱーん」
今度は、はっきりと聞こえました。そんなはずはない。ここは別棟で、本館とはつながっていない。
そう思った瞬間、別の考えが頭をよぎりました。
――別棟と本館は、何でつながっているんだっけ。
連絡通路。
もし、ずっと縦に移動していたそれが、その存在に気づいてしまったら。
階段を上る必要なんて、もうない。あとは、横に渡るだけ。
コツ……コツ……
誰も通るはずのない時間帯に、ゆっくり、ゆっくりと、足音が向かってくる。
コツ……コツ……と確かに鳴る。
そして、部屋の前で止まる。
静寂の中で、コン、コン。
あの日と同じ、控えめなノック。
私は、その時ようやく気づいたのです。
あれは、ずっと縦に移動していたわけではなかった。
移動できる場所が、そこに階段しかなかっただけなのだと。
※この物語は体験談をもとにした創作です。








