川徳創業160周年記念連載小説
FACES
南海 遊
1.Reversible

「伊東、いつまで百貨店で働くんだ?」
その問いかけには少し非難めいた響きがあった。伊東英夫は目を瞬く。
「どうしたんだ、急に」
受け流すように軽く笑って、伊東は自分の衣装の点検に目を戻す。ボタンが取れかけているのを見つけたが、生憎、ソーイングセットは手元に無い。仕方なく手近にあった養生テープを貼り付けて補強する。出来栄えを矯めつ眇めつ、伊東は言う。
「深山、胸ぐらを掴む場面、なるべくこのボタンのところは掴まないようにしてくれるか?」
「なあ」深山進太郎は真剣な顔で言う。「質問に答えてくれ」
そこは盛岡劇場の地下タウンホールにある狭苦しい楽屋である。伊東たちの舞台の開演まで既に30分を切っている。他のメンバーたちは音響の準備やらチケットもぎりやらに出払っており、室内には伊東と深山の二人しかいなかった。
劇団セミカラー。それが彼らの所属する劇団の名前だ。今から10年前、まだ大学生だった伊東と深山の二人で立ち上げた小さな市民劇団である。脚本と演出はいつもこの二人で考え、2、3ヶ月に一度くらいの頻度で盛岡劇場でオリジナルの舞台劇を披露している。地方都市のアマチュア劇ではあるものの、今では熱心なファンが付くほどの人気を博していた。
「いつまで百貨店で働くか」伊東は衣装に袖を通しながら言う。「そんなの分からないよ。今まで考えたこともない」
「転職したいと考えたことは?」
「そりゃ、仕事でしこたま頭に来ることがあったときなんかは衝動的に思ったりもするさ。でも、大抵はビールを飲んだら忘れるよ」
「それでいいのか」
「ビールを飲み続けられる限りはね」
「それじゃ、いつまでビールを飲むんだ?」
「酔い潰れるまでかな」
冗談めかして言ってみたものの、深山は笑わなかった。10年前ならば笑ってくれただろうか、と伊東はそんなことを思った。
二人は盛岡にある大学の演劇部で出会い、大学の卒業と同時に自分たちの劇団を設立した。伊東自身は純粋に演劇というものが好きで、どんな形であれ舞台に関わることが出来ればそれで良し、という考え方の持ち主だった。しかしその一方で、深山はどちらかと言えば上昇志向の強い人間だった。深山は現在、仙台の小さな芸能プロダクションに所属しており、舞台の仕事がある度に自家用車で盛岡から仙台を往復している。当然、それだけでは食っていけないので別に本業の仕事をこなしながらである。
「今日は打ち上げに付き合えよ」
深山が真面目な顔で言う。明日は朝早くから催事の準備があるので、伊東は早々に帰る予定だったが、ここまでシリアスな空気の中で断るのも憚られた。伊東が頷いたとき、楽屋の入り口から団員の一人が顔を覗かせて今日の客入りを報告した。今日もほぼ満席であるらしい。伊東は口元を緩めたが、深山の表情は強ばったままだった。
伊東たちの舞台はその殆どがコメディである。主役は深山が務め、伊東はその引き立て役に廻るのが常だ。実際、深山には人の目を惹き付ける先天的な資質があると伊東はいつも思っていた。そんな彼と舞台で劇を演じるのが好きだったし、彼と一緒に観客を笑わせるのが伊東は好きだった。
その日も舞台は大いに盛り上がった。カーテンコールの拍手は過去最大だったし、見送りの為にタウンホールの入り口に立つと、客達はこぞって伊東たちに賞賛の言葉をかけた。次回の公演が待ち遠しい、という言葉を7回まで数えたところで、伊東は数えるのを辞めた。その言葉を投げられる度に隣に立つ深山の表情が僅かに強ばっていったからだ。
「それで」打ち上げの席で切り出したのは伊東の方からだった。「劇団を辞めるのか」
深山は一瞬驚いたような顔を見せる。八幡町にある小さな居酒屋は、劇団セミカラーのほぼ貸し切り状態になっていた。他の団員たちはそれぞれに今日の感想や独自の演劇観などを熱心に語り合っており、二人の話は耳に入らないようだった。
「すまない」と、深山は力なく言った。「東京のプロダクションに誘われているんだ」
「東京?」伊東は思わず目を丸くする。「だっておまえ」
「最後のチャンスなんだ」深山が言葉を遮るように言った。「俺ももう30代の半ばに差し掛かってる。わかるだろ」
元々、プロの役者になるのが深山の夢であると、伊東は大学時代からよく聞かされていた。大学を卒業した後、深山はそのために上京するつもりだったが、卒業とほぼ同時に父親が病気で他界してしまい、家業の酒屋を継いだ。深山の母親はそんな息子に対して、自分の好きなように生きるように何度も言った。しかし、深山自身は母親一人に酒の配達という重労働を押しつけられるような性格ではなかった。
「でも、酒屋はどうするんだ? 畳むのか?」
伊東の問いに、深山は少し自虐的に答えた。
「最近、妹が結婚したんだ。その旦那の方が、俺さえ良ければ自分に酒屋を引き継がせてくれないか、って言ってきた。もともといつか自分で起業したいと思っていたらしい。凄い優秀な奴だよ。昨日も事業計画について熱心に聞かされた。有名な作家だかデザイナーだかとのコラボ商品の開発とか、俺には思いつかないような話を延々とね」
そして、深山は小さく溜め息を挟む。
「たぶん、今思えば妹の入れ知恵もあったんだろうな」
深山とその妹は昔から仲が良かったと、伊東は聞いている。夢を我慢する兄を見続けてきた妹の胸の内は、推して知るべしといったところだろう。
伊東はしばらくじっと彼の横顔を見つめた後で、意を決して訊ねた。
「——美奈子さんのことはどうするんだ?」

作家プロフィール
南海 遊(みなみ あそゔ)
秋田県横手市出身、岩手県盛岡市在住。2018年、『傭兵と小説家』で第24回星海社FICTIONS新人賞を受賞し、翌年作家デビュー。2024年に刊行された『永劫館超連続殺人事件 魔女はXと死ぬことにした』は、各誌のミステリーランキングに名を連ね、ミステリー界の注目株として高い評価を受ける。会社員として働く傍ら、作家活動を続け、盛岡文士劇にも出演するなど、多方面での活躍に期待が寄せられている。
■作者コメント
まだ20代の時分、私はこちらの川徳で働かせていただいておりました。
私のこれまでの人生で、あれほどまで多種多様な人たちと出会った時代は無かったと思います。そしてその経験は間違いなく、現在の私の執筆の礎になっています。今回、川徳を舞台にした小説を書く機会をいただきまして、当時のことを懐かしく思い出しながら執筆させていただきました。
歴史ある百貨店の中で「繋がっていく物語」を、どうか楽しんでいただけると嬉しいです。



