川徳創業160周年記念連載小説
FACES 第4話
南海 遊

伊東の担当する催事が最終日を迎えた翌日の夕方、深山が百貨店に顔を出した。ちょうど伊東は次の催事の準備作業に取り掛かろうとしたときだった。
「世話になったから、お礼をと思ってね」
菓子折りの入った紙袋を掲げて見せた深山は、伊東が思っていたよりは元気そうだった。二人が会うのは、深山が例のブローチをここで買って以来のことである。
ちょうど夕方の休憩時間を取りそびれていた伊東は、深山を誘って百貨店の屋上に向かった。空は夕陽で真っ赤に染まっていた。
「先週、上京してアパートを決めてきたよ」深山が先に口を開いた。「区外だけど、割と綺麗な物件だ。今度遊びに来るといい」
「いつ行くんだ?」
「来月の末。とはいえ、しばらくは酒屋の引き継ぎの件もあるから東京と言ったり来たりだ。だから、劇団の次の舞台は出られそうだよ。稽古はあまり出られないが」
二人はそんな会話をしながら、社員食堂で買った缶コーヒーを片手にフェンス越しの菜園通りの雑踏を見下ろす。夕暮れ時の通りには家路を急ぐ人たちの姿が多く見受けられる。その誰も彼もが、家で待っている人が居るように伊東には思えた。
「……なんて言われたんだ?」
平和な世界を見下ろしながら、伊東は静かな声で訊ねた。深山は小さく吐息をついて、語り始めた。
「考えている未来とは少し違う、だってさ」
「そうか」
「一応、俺にも選択肢は与えられた」
「選択肢って?」
「東京に行かずに付き合い続けるか、別れて東京に行くか」
伊東は再び「そうか」とだけ言って夕暮れの空を見上げた。深山がその前者を選べるはずがない。それが理解できている分、やるせない気持ちが湧いてきた。
そこで深山はポケットから小箱を取り出し、蓋を開ける。そこには夕陽を浴びて輝く蝶のブローチが収まっていた。
「結局、渡せなかったよ」
そこで初めて、伊東は深山の顔に表情が浮かんでいるのを見た。役者の仮面の下にあったのは、哀切の色である。きっとこれから先、深山はこのブローチを見るたびに同じ感情を覚えるだろう。伊東はいつものようにその背中を叩いてやろうとした。だが、思いとどまる。
……そんな行為に、いったい何の意味がある?
自分がそんなことをしなくても、深山はきっと独りで立ち上がることが出来る。当たり前だ。俺たちはもう慰め合うだけの若造ではない。深山はこれから東京に向かい、本当の自分の人生と向き合い始めるだろう。
そんな彼に対して、俺に出来ることは数少ない。
だが、ゼロではない。
そう思ったときには、伊東は深山の手からブローチの箱を取り上げていた。胡乱な顔をする深山に対して、伊東は告げた。
「——返品を受け付けよう」
深山は呆気に取られていたが、やがて苦笑を漏らす。
「例の催事は昨日で終わりじゃなかったか。さすがに返品はできないだろ」
深山の言う通り、在庫は既にすべて返品してしまっているし、既に売上が立っているものを取り消すとなれば、色々と社内の手続きは面倒になりそうだった。
……だが、それでも構うものか。
伊東は背広のポケットから財布を取り出し、半月前に深山が支払った金額と同じ額の札を抜いて彼の手に握らせた。普段はこれほどの大金を持ち歩いていたりはしない。しかし、伊東はちょうど今日の昼休みに、当選した宝くじの換金に銀行に行っていたのである。
「おい、ちょっと待てよ、伊東」慌てた様子で深山は金を返そうとする。「これ、おまえの金じゃないのか」
「建て替えてるだけだよ」
「いや、おまえにそこまでしてもらうわけにはいかないよ。おまえは自分の仕事をしただけじゃないか」
「これも百貨店員としての仕事だ。俺の顔を立てると思ってくれ」
「顔を立てるだって?」と深山は伊東を睨む。「百貨店員としてか? おまえはただ、俺を憐れんでいるだけだろう」
「ああ、そうだ」
と、伊東は即答する。
「おまえの友人である俺も、百貨店員である俺も、どちらも俺の顔だ」
深山はしばらくじっと伊東の顔を見つめていたが、やがて諦めたようにその金を受け取った。そして深々と頭を下げる。
「……すまん、伊東。正直、恩に着る」
「有名になったら、うちの店でイベントをしてくれ。それでいいよ」
「ああ」と深山は頷く。「約束するよ」
そこでようやく、伊東は深山の背中をいつものように叩くことができた。
深山が帰った後、伊東は独りで屋上に佇みながら、先ほど返品を受け付けたブローチを手のひらに載せて見つめる。羽の部分にあしらわれたダイヤモンドもさることながら、加工の難しいプラチナで見事に蝶の形を表現している。我ながら非常に素晴らしいアイテムをセレクトしたものだ。とはいえ、自分の一存で返品を受け付けた以上、絶対に返品の決裁を取らねばなるまい。
そんなこと固く決意していると、背後から声を掛けられた。
「あれ、伊東係長、何をされているんですか?」
振り返ると、そこには久田が立っていた。その傍らには、彼女の身長よりも高く積まれた段ボールの載った台車がある。
「いや、ちょっと休憩中だよ。久田さんは?」
「通りすがりです。この段ボールをちょっと社食まで」
「重そうだね、手伝おうか」
「殆ど空箱なんで大丈夫ですよ」
と、そんなやり取りをした直後、一迅の突風が屋上を吹き抜けた。久田の言う通り、台車の上の段ボールは殆どが空箱だったらしい。風に煽られた段ボールが崩れ、たまたま近くに立っていた伊東の顔面に直撃する。それほどに強い突風で、伊東には避ける暇も無かった。ふが、という間の抜けた声と共によろめく伊東に、更に畳み掛けるかのように他の段ボールが吹き付けてくる。
「あ、係長!」
久田が伸ばした手も虚しく、段ボールの礫の連撃を受け、伊東は背中から屋上に倒れ込む。その拍子に伊東の手のひらに載っていた蝶のブローチが宙を舞った。まずい、と咄嗟に伊東は立ち上がろうとするも既に遅かった。
天高く放り上げられたブローチは屋上のフェンスの網目を絶妙な角度ですり抜け、夕陽をきらきらと浴びながら眼下の菜園通りへと落下していく。「通行人の誰かに当たってしまったら一大事だ!」という百貨店員としての理性と、「俺の14万円が!」という感情が綯い交ぜとなり、伊東の口から舞台でも上げたことの無いような絶叫が放たれた。
困惑する久田を置いて伊東は駆け出す。エレベーターを待っている時間すら惜しかったので、社員用の階段を七階から一階まで全速力で駆け下りる。一階フロアを駆け抜け、伊東は汗だくで百貨店の正面入口に飛び出した。
ブローチが落ちた周囲の路面を見回すも、だがしかし、それらしきものは見つからなかった。あれだけ贅沢に宝石を使ったブローチである。通行人にでも一目で高価なものだとわかるだろう。足元に穴が空いたかのような気分で、伊東は往来のど真ん中で崩折れる。やがて久田が後からやってきて、意気消沈する伊東に恐る恐る声を掛けた。
「あの、大丈夫ですか、係長……?」
「蝶が飛んで行った」
意識したわけでもなく、そんな言葉が力なく伊東の口から漏れた。だが、その台詞の可笑しさに、思わず伊東は自分で笑い出してしまう。たった今、二桁万円を超える損失を被ったというのに、妙に清々しい気分だった。
「伊東係長、どうかしたんですか?」
「いや、いっそ遠くまで飛んで行け、と思ってね」
「はぁ」
首を傾げる久田を余所に、伊東は空を見上げる。茜色に染まった夕空が、優しげな顔で人々を見下ろしていた。

作家プロフィール
南海 遊(みなみ あそゔ)
秋田県横手市出身、岩手県盛岡市在住。2018年、『傭兵と小説家』で第24回星海社FICTIONS新人賞を受賞し、翌年作家デビュー。2024年に刊行された『永劫館超連続殺人事件 魔女はXと死ぬことにした』は、各誌のミステリーランキングに名を連ね、ミステリー界の注目株として高い評価を受ける。会社員として働く傍ら、作家活動を続け、盛岡文士劇にも出演するなど、多方面での活躍に期待が寄せられている。
■作者コメント
まだ20代の時分、私はこちらの川徳で働かせていただいておりました。
私のこれまでの人生で、あれほどまで多種多様な人たちと出会った時代は無かったと思います。そしてその経験は間違いなく、現在の私の執筆の礎になっています。今回、川徳を舞台にした小説を書く機会をいただきまして、当時のことを懐かしく思い出しながら執筆させていただきました。
歴史ある百貨店の中で「繋がっていく物語」を、どうか楽しんでいただけると嬉しいです。








