川徳創業160周年記念連載小説

FACES 第5話

南海 遊

2.Look up

 浅田詩織はその邸宅の前で溜め息をついた。それは3月上旬の盛岡の空気の中にくっきりと漫画の吹き出しのような形になって浮かび、やがて消えていった。目の前にあるのは立派な3階建ての邸宅で、玄関先には自動開閉の両開きの鉄扉まで付いている。この家に来るのは3回目だ。意を決してモニター付きの呼び鈴を押すと、間もなく使用人らしき女性の声が答えた。咳払いをしてから、浅田は名乗る。

「川徳の浅田です。鹿野謙造様と14時のお約束で伺いました」

 使用人の柔和な返事に続いて、鉄扉がするするとスムーズに開いていく。

 ——今日はどんなことを言われるだろうか。

 そんな不安を深呼吸と一緒に呑み込み、彼女は敷地に足を踏み出した。
 浅田は今年勤続10年目を迎える百貨店員で、31歳。紳士服売り場の所属で、普段は店内の売り場に居て接客をするのが担当業務だ。本来、このように顧客の家に外販に来るのは外商部の仕事である。実際、この顧客にも担当の外商社員が付いているのだが、いつも浅田を指名して呼ぶのだった。

 この家の主、鹿野謙造なる御仁は70をとうに越えた男性で、外商部ではちょっとした『頑固者』として有名であるらしい。一ヶ月前にたまたまこの御仁が紳士服売り場に万年筆を買いに来た際、浅田の熱心な接客対応をいたく気に入ったのだそうだ。
 物腰穏やかな使用人に案内され、浅田は掃除の行き届いた廊下を進む。奥の和室の襖の前に通され、使用人は去って行く。浅田はその場で正座をし、おずおずと襖の向こうに声を掛ける。

「鹿野様、川徳の浅田でございます」

 うむ、という返事を確認して、浅田は慇懃な仕草で襖を開けた。室内には紺色の着物の着た老齢の男性が胡座を掻いて腕組みをしていた。浅田は三つ指を突いて一礼をした後、営業用の微笑を浮かべながら入室する。

「お邪魔いたします」

「なっとらんな」

 と、鹿野は浅田を一瞥して溜め息をついた。げ、また何かやらかしたか、と浅田は息を吞む。そんな浅田の足元を指さし、鹿野は険しい声で言う。

「部屋に入るときは畳の縁を踏んではならん。礼節の基本だ」

 険しい顔で睨まれ、浅田は咄嗟に頭を下げた。

「し、失礼いたしました……」

「まったく、あんたのところの会社はそんな基本的な作法も教えてくれんのか?」

「あ、いえ、おそらく研修で教わったのだとは思いますが……」と浅田は愛想笑いをしながら頭を掻く。「あの、たぶん、私が忘れているのだと思います」

 正直に告白すると、鹿野は一瞬目を丸くした後でにやりと笑った。その不敵な笑みに浅田はむしろ怯んでしまった。

「まぁ、いい。こちらに座りなさい。頼んでいたものは持ってきてくれたのか」

「ええ、一通りを持って参りました」

 萎縮しつつも浅田は鹿野の真正面に座り、テーブルの上に10本の万年筆を広げて見せた。「とにかくあんたの薦める万年筆を全部持ってきて見せろ」というのが鹿野からの依頼だったのだ。

「では、一つずつ説明をしなさい」

「あの、その前に宜しいでしょうか、鹿野様」と浅田はおずおずと申し出る。「鹿野様は今回、どのような万年筆がご入り用でしょうか?」

「む?」

 と、鹿野は不機嫌そうに眉根を寄せる。だが、浅田は今度は怯まず続けた。

「今回はそれぞれコンセプトの違う商品をお持ちしております。ご入り用の目的が分かれば、より親密なご相談ができますかと」

「ふむ、そうだな」鹿野は顎をさすりながら答える。「まずは長持ちすることだ。付喪神が付くほど使い込めるものがいい」

「付喪神?」

 いったい何の話が始まったのか、と浅田は首を傾げる。

「知らんのか」呆れた様子で鹿野が言う。「物というものは長く丁寧に扱えば神様が宿る。神様というものは人生の要所要所で手を貸してくれるものだ。だからこそ、一人の人間のこれからの人生に付き添ってくれるような、そういう使い方ができる万年筆が必要だ」

 漠然とした答えだった。浅田は鹿野の言葉を反芻しながら黙考する。

「やはりモンブランだな」と鹿野はそんな浅田を余所に、目の前の一本を手に取る。「歴史的な由緒もある——」

「もしや、どなたかへのプレゼントでございますか?」

 浅田の言葉に、鹿野の動きがぴたりと止まる。

「む」

「これからの人生に付き添ってくれるような、ということは、お贈りする相手は今はまだお若い方でしょうか。たとえば娘さんか、或いは」

「……孫だ」

 と、鹿野はどこか苦い顔をして答えた。心なしかその表情は少し恥ずかしげに見える。少なくともそれは浅田が初めて見る顔だった。機を得たり、と言わんばかりに浅田は質問を畳みかける。お孫さんは男の子か女の子か、年はいくつか、何をきっかけとしたプレゼントか、もしかして入学祝いか。そんな問いを投げかける度に、鹿野は気圧されるように口数少なくなっていった。断片的な回答を寄せ集めると、浅田の頭の中に贈り先の人物像が出来上がっていく。どうやらこの御仁は、12歳の孫娘の中学校の入学祝いに万年筆を贈りたいようだった。

 なんだ、気難しい人かと思えば、ただの孫想いの良いお爺さんじゃないか。
 浅田は何となく肩の力が抜けたような気がした。

「では、こちらのボールペンなど如何でしょう。ラミーのステュディオというシリーズで、この丸みを帯びたデザインはお若い方にも人気があります。カラーバリエーションも豊富ですし」

「ボールペン?」と鹿野は再び不機嫌そうに睨んでくる。「あんたは何を聞いていたんだ? 私が贈りたいのはボールペンなどという軟弱なものではなく万年筆だと——」

「中学生が万年筆なんて使うわけないでしょう」

 ばっさりと浅田は斬り捨てる。鹿野は唖然としたように口を開いた。かまわず浅田は畳みかける。

「最近の小学生は鉛筆だって使わずにシャープペンシルなんですよ。今の子たちは私たちが思っているよりもずっと利口で効率性を意識しているんです。格式よりも機能性の方が気に入られるに決まっています。十数万円もするモンブランの万年筆を贈って使われずに机の引き出しにしまわれてしまうよりも、可愛らしくて使いやすいボールペンをずっと使って貰えた方が良いと思いませんか? ほら、私のこのボールペンもラミーです。入社祝いに伯父がくれたものですが、10年経った今でも現役です。インクのカートリッジも長持ちしますし、書き心地もその辺の安いボールペンとは比べものになりません。掠れも起こらず、ペン先の強弱もちゃんと文字に伝えてくれるんです。ほら、実際に書いてみてください」

 浅田がボールペンと紙を押しつけると、鹿野はわずかに躊躇いながらもそこにさらさらと名前を書いた。鹿野美咲、というのがどうやら彼の孫娘の名前らしい。その文字を書き終えると、鹿野は少し感心したように「ほう」と声を漏らした。ほれ見たことか、と浅田は得意げに頷いた。

「しかし」と鹿野は文句を探すようにじろじろとペン先を見つめながら言う。「このインクは真っ黒というより少し青みがかっているのではないか?」

「ブルーブラックはボールペンではポピュラーなインクの色ですよ。黒では物足りないけれど青では目立ちすぎる、そんな時にちょうど良い色味なんです」

 その後、浅田は女子中学生の気に入る色についていくつか助言をし、最終的には銀白色のパラディウムと呼ばれるカラーを購入して貰うことになった。「女の子だからピンクが良いのではないか」という鹿野の意見は「女の子が誰でもピンクが好きというわけではない」という浅田の独断と偏見によって却下となった。

「美咲の母親、つまり私の娘だが、昔から身体が弱くてな」

 テーブルに広げた万年筆を片付け終えたとき、鹿野がぽつりとそんな話をし始める。何処となく言葉に柔和な雰囲気が宿っていた。

「今もしょっちゅう入退院を繰り返しておる。その間、孫は私とこの家の家政婦で面倒を見ておった。だが、中学からは寮に入ることになってな」

「寮、ですか」

「ああ、自分で言い出しおった。その方が母親も療養に専念できると思ったんだろう」

「お父様はどうされたのですか?」

 浅田は反射的に訊いてしまった後で、しまった、と思った。想像力を働かせれば、それが何らかの悲劇的な結末を迎えているであろうことは察することができた筈だった。案の定、鹿野は憎々しげに顔を歪めた。

「孫が生まれてすぐに離婚した。もともと妻子を養う甲斐性の無い男だったからな」

 浅田は何も言わずに頷いた。浅田の身の回りにも離婚を経験した知人はいる。その理由は千差万別で、いずれも浅田が口を挟める領域ではなかった。神妙な顔をしている浅田に、鹿野が訊ねる。

「あんた、結婚はしているのか」

「ええ」

「子供は?」

「2人おります。上が小学生、下が保育園。どちらも男の子です」

「そうか」鹿野は腕組みをして頷く。「いつも悩むものだと思わんか」

「何が、でしょうか?」

「何をしてやれるものか、とな」

 鹿野は真剣な顔で言った。浅田は表情を緩める。既に彼女の中で、この老人への苦手意識は払拭されていた。浅田はにっこりと微笑んだ。

「いつでもご相談ください。そのための百貨店です」

「ふん」鹿野が鼻で笑う。「商魂だけは一人前だな」
 

※第6話は8月1日(土)に掲載予定です。楽しみにお待ちください。
 

作家プロフィール

南海 遊(みなみ あそゔ)

秋田県横手市出身、岩手県盛岡市在住。2018年、『傭兵と小説家』で第24回星海社FICTIONS新人賞を受賞し、翌年作家デビュー。2024年に刊行された『永劫館超連続殺人事件 魔女はXと死ぬことにした』は、各誌のミステリーランキングに名を連ね、ミステリー界の注目株として高い評価を受ける。会社員として働く傍ら、作家活動を続け、盛岡文士劇にも出演するなど、多方面での活躍に期待が寄せられている。

■作者コメント
まだ20代の時分、私はこちらの川徳で働かせていただいておりました。
私のこれまでの人生で、あれほどまで多種多様な人たちと出会った時代は無かったと思います。そしてその経験は間違いなく、現在の私の執筆の礎になっています。今回、川徳を舞台にした小説を書く機会をいただきまして、当時のことを懐かしく思い出しながら執筆させていただきました。
歴史ある百貨店の中で「繋がっていく物語」を、どうか楽しんでいただけると嬉しいです。

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